Prokumaの雑記

限りなく日記帳に近いブログ

大学受験生への底辺院生からのメッセージ

半年とちょっとくらい前から韓国から日本への留学を目指す受験生の集まっているオープンチャットにいながら「ニュースだけだとわからない韓国内の事情」に関する情報を集めている。 もちろん、自分自身の忘れかけている韓国語力を保つための練習のためでもある。 しかし、自分の受験時代よりも「受験」で人柄を判断しようとする傾向が一層強まったことに絶望感を抱いた。 百歩譲ってモラルの問題はないにしても、異様な「受験」とそれによって得られた「肩書き」に対する執着が受験生自身を押し殺している非常に哀れな姿を見て残念だと思っている。 その現象を見て思ったことを、この記事に書いていく。

そもそも彼らは「なぜ」そうするのか

「生存」が大きいが、根本的な問題は他にある

韓国が「超学歴社会」だということは日本中でも広く知られていることであろう。 これは、「生存」のためだと容易に考えられ、実際そうでもある。 しかし、果たしてそれが根底にある原因なのかという疑問に対し、自分の答えは「ノー」である。

メリトクラシー」という言葉はご存知だろうか。「能力主義」とも訳される言葉である。 能力によってその能力を活かせる場所で優遇されるのは我々が生きている社会の仕組みである。 このような現実は否定できない。しかし、「能力主義」の「能力」は一般的に考えられる能力とは少し違う。 可視化された「能力」が社会的優遇の基準として真っ当だという考え方だと捉えた方が近いだろう。 このようなメリトクラシーは、まだ世襲よりはいい仕組みかもしれない。 また、成果の分配において、このようなやり方を採用せざるを得ない現実もある。 問題は、メリトクラシーが「世界の唯一つ存在する真理」であると考えることである。

受験戦争の根底には、「メリトクラシー」とそこからの可視化された「能力」に対する崇拝にあるだろう。

「能力」は果たして「公正」な「モノサシ」なのか

彼らは「能力」を「公正」な「モノサシ」だと考えているのである。 ペーパーテストを受け、その点数で大学名が決まり、その大学名で「差別」をするのが当たり前だという考え方が根底にある。 もし「能力」が低いと、その「能力」向上のために「努力」しなかったのが悪く、給与・待遇等で「差別」を受けるのが当たり前、のような考え方が見受けられる。 一見「正当」に見えるが、果たしてそうなのか。

まず、その可視化された「能力」が社会において役立つ本当の能力を全て可視化できているかの問題がある。 もちろん、現代社会において重要視される能力と受験で可視化された「能力」に共通部分は少なくないが、これだけでその人の潜在力を知ることはできない。 限りなく限定された評価軸と、そのために無理矢理「次元圧縮」した結果である「能力」で「差別」をしてもいいかを、私から問い掛けたい。

可視化の「方法」が完璧なのかに対する問題もある。先ほど述べたとおり、可視化するためには無理矢理「次元圧縮」をする必要がある。 そのため、たとえ社会に「必要とされるであろう」と判断した評価軸を全て洗い出し、その次元に人の能力を「次元圧縮」しても、 失われた情報が実は大事なポテンシャルだったかもしれない。もちろん、一般的に高いポジションとされるところには活躍できそうな人材を採用したいのは当たり前だから、 評価軸を立て、「次元圧縮」を行うのは仕方ない。問題は、そのような評価軸を「崇拝」することである。

一見「公正」で「正当」であるように見える社会的ポジションに関係する可視化ツールも、さまざまな問題を抱いている。 「モノサシ」の存在は仕方ないが、それが絶対的に「公正」であるかというと、そうとは言えない。

「現状」は仕方ないが、「現状」が「真理」ではない

先ほど述べたように、「モノサシ」による評価と待遇は仕方ないにしても、それが「真理」ではない。 「真理」だと信じ込んでしまうと、数少ない「モノサシ」に必死に自分を合わせようとし、やがて誰も得しない結果を導くことになる。

受験生に伝えたいこと

大学受験・学歴は「モノサシ」の一つ

大学受験と学歴が「無駄」とは言わない。現代社会において求められる能力の少ない部分を評価する「モノサシ」であることは確かである。 しかし、先ほど述べたように、「モノサシ」というのは絶対的な「真理」ではないため、「崇拝」してはならないことである。 これが「真理」だと信じ込んでしまうと、結局自分が望まぬ結末を迎える可能性も大いにある。

「モノサシ」は必要だが、「信者」になるのは良くない

このような「モノサシ」の存在意義を全否定することはできない。現代社会において、このような評価は仕方ないのである。 しかし、「信者」になってしまうとやがて自分が不幸になる可能性が高く、世界観が「モノサシ」に限定されてしまうリスクもある。 受験に向かって勉強するのは尤もな姿勢だが、あまり「試験」や「学歴」にこだわらない方がいい。

受験の目的を顧みてほしい

受験の目的が受験という「モノサシ」で有名大学の合格という「業績獲得」のためだけではないかを顧みたほうが良い。 もしそれであれば、過度な「メリトクラシー」に毒されていないかを考えてみてほしい。 自分で自分の首を絞めることになりかねない。

最後に

これ以上伝えることはない。受験の目的が確固たるものであれば、「頑張れ!」